語られた歴史 島津久光

こんにちは、だるパパです。

今回は、幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩の国父島津久光について書かれた本を紹介します。

現在広く認識されている幕末の歴史では、島津斉彬(久光の兄)、西郷隆盛、大久保利通等は有名ですが、久光はそれらの人物よりずっと認知度が低いのが現状です。

私は、今まで幕末の薩摩藩に関する色々な大河ドラマ、書籍等を見たり読んだりしてきましたが、その中で登場する久光は、頑固者、時代遅れ、権力欲の塊に描かれ、何と言っても西郷を島流しにするなど明治維新の邪魔者的な存在として描かれていました。

しかし、この本を読むと、久光の意外な人物像が浮き彫りになり、久光が自分や薩摩藩を犠牲にしてまでも兄斉彬の遺志を受け継いで、近代日本のために懸命に尽くした君子であることが分かりました。


 

第一章 生い立ち P 14〜P19

生い立ち

久光は、文化14年(1817年)、薩摩藩主で島津家代27代当主島津斉興の五男として生まれます。

長男は斉彬ですが、他の男兄弟は早世し、最終的は斉彬の唯一の男兄弟となります。

久光は、幼少の頃から人情の厚い慈しみ深い人柄で、珍しい鳥獣が献上されても、「むやみに鳥獣をもてあそぶのは罪つくりだ」と言い、係役人に下げ渡していたそうです。

また、斉彬が家臣に宛てた手紙では「久光は柔和に見えるが、芯はしっかりしているようなので、政治に集中すればよい結果を出すだろう」と、好意的な評価を下しており、斉彬の久光に対する評価は生涯変わることはなかったようです。

お遊羅騒動

一般的には、斉彬と久光は仲が悪かったと思われているようですが、このイメージは島津家の後継問題であるお遊羅騒動が起こったためだと思われます。

この時、久光は藩主候補として、反斉彬派としてかつがれていますが、勝手に反斉彬派と思われただけで実際は、斉彬を生涯慕っていたようです。

斉彬が藩主にならなければ、当然、次の藩主候補は久光なので、周りの家臣等からはそのように思われるのも仕方がなかったのかもしれません。

第2章 卒兵上京 P25〜

幕府の混乱と斉彬の死

文久2年(1862年)、久光が1000人の兵を率いて上京し、さらに勅使とともに江戸参府して幕政改革をせまったことは、江戸時代始まって以来の大事件でした。

幕末、外国に対して対応ができなかった幕府を見て、斉彬は日本が西欧列強の植民地にされないように、まずは幕府内の人事から改革をしようとするものでした。

しかし、斉彬は志半ばで急逝してしまいます。

斉彬は、自分の死期が近いことを悟ると、後継には、久光か久光の長男忠義を指名しましたが、久光はこれを断り、藩主は忠義になり、久光は国父という立場になります。

その後、斉彬によって隠居に追い込まれた斉興が忠義の後見人として国元に戻り、斉彬が進めていた近代化への事業を次々と廃止していきます。

斉興とその家臣が行ったこれらの行為を司馬遼太郎の「翔ぶが如く」という小説などではなぜか久光の仕業だとはっきりと描かれています。

斉興の死後、久光は素早く斉興の家臣を左遷するなど人事改革を行い、斉彬が進めていた事業を復活させましたが、これについては西郷隆盛も称賛していたようです。

率兵上京は斉彬の遺志実現のため

当時の日本は、朝廷を支持する勢力と幕府を支持する勢力が対立する状況でしたが、斉彬の遺志を守ろうとする久光は、この状態を放置すれば、内乱になり外国の介入を招き、ついには日本が植民地とされてしまうと強い危機感を持っていました。

日本を守るためには、一致団結しなければならないのですが、久光は、まずは現在の統治者である幕府を立て直す必要があり、そのためには春嶽と慶喜を政権担当に据えることができればそれが可能になると考えていました。

そもそも、外様大名の家来に過ぎない久光が、幕府中枢の人事に介入しようということが徳川幕府にとって空前絶後の大事件と思われており、津本陽『巨眼の男 西郷隆盛』では、「国父として藩の動向を左右しうる実力を得ると、斉彬の考えていたように大兵を率いて上洛し、さらに江戸に至って幕府に政治改革を促し、一気に国政の檜舞台に立ちたいという野心が、頭をもたげてくる。」等と表現されています。

しかし、薩摩藩を背負う久光が自分の権力欲だけでここまでリスクの高い行動が取れるでしょうか?

斉彬が目指していたことを久光に課せられた使命と考えて、死罪をも恐れずに、一身をかけた重大な決意を持ってしなければ到底できることではありません。

西郷の呼びもどしと久光への暴言

久光が勅命をもらうため、大久保では役不足だったことから、大久保等の意見を聞いて、西郷を奄美大島から呼び戻しを許可しました。

しかし、西郷は島流しから帰ってきて、テンションが上がっていたこともあり、久光から今回の計画について尋ねられた際に「斉彬と違って、久光は地五郎(田舎者)だから、ひょっと出て上手く行くはずがない。でもご決心ならば仕方がない。諸国には浪人がおり邪魔をしようとしています。私が鎮撫しましょう」等と失礼なことを言いました。

この時は、久光は西郷の言葉を聞き入れて、長州で待ち合わせをしてから、船で京に上がる約束をしました。

しかし、西郷は、不穏な動きをする浪士を鎮撫するという目的で、独断で下関を離れてしまいます。

下関の待機は西郷と久光が話し合った上で決めたことであったのに、西郷は勝手に約束を破ってしまい、これには久光が怒ったのも無理はありません。

大体、西郷目線の大河ドラマで、動きが遅い久光と比較して、西郷の英断のように描かれている場面ですが、久光から見れば、いきなり失礼なことを言われた挙句、約束を反故にしてしまう西郷は、とんでもない男であるという見方ができます。

第3章 寺田屋事件 P53〜

西郷をふたたび島流しに

久光は、西郷が「自分が浪士たちの動向を探るから、それを踏まえて今後の行動計画を決めてください」と申し出たから、下関で待てと指示したのに、いざ到着したら西郷は勝手に出発している。

そもそも西郷は幕府のお尋ね者だから目立った行動をされては困るのに、自分が主役のような言動で浪士たちを煽っている。

久光は、西郷は自分の立場が分からないのか、この計画を潰すつもりなのかと思ったはずです。

久光は西郷の捕縛と薩摩への送還を指示しましたが、西郷を死罪にしなかったのは久光の温情でしょう。

第5章 生麦事件と薩英戦争 P99〜

生麦事件は久光の意に反しておきた

生麦事件は幕末に起きた有名な事件で、イギリス人の一行が久光の行列と出会し、馬に乗ったまま横切ろうとした際に、薩摩藩士に斬られて死傷した事件です。

日本の小学校、中学校でこの事件を簡単に学習しますが、私は、久光の命令でこの事件が発生したと思っていました。

実際、久光は、失礼な振る舞いに激怒した奈良原喜左衛門等がイギリス人を殺傷した際、籠の中におり、その状況を全く把握していませんでした。

英人殺傷は久光の指示だと思われた

生麦事件を知った幕府は、久光が外国と争いを始めて、幕府を困難の地位に陥れようとしていると考えて憤慨したようです。

しかし、先ほど述べたように、久光はイギリスとの争いを全く望んでいませんでしたし、そもそも久光は現在の日本の実力では攘夷などとてもできるわけがないと考えていました。

当時、孝明天皇が攘夷を命じていましたので、久光がその指示に従いイギリス人を殺害したと誤解されたのでしょう。

その結果として、久光は本人の意に反して攘夷のヒーローになってしまったのです。

また、久光は江戸から鹿児島に帰る予定でしたが、朝廷等から京都に来るように要請があり、やむをえず上京しましたが、その時、ヒーローを一目見ようと集まった大群衆に迎えられます。

そして、久光は天皇から直々に攘夷行為を誉められ、剣まで拝領したことから、不本意ながら英国と一戦交えざるをえないことを決心します。

薩英戦争の結果については、皆さんご承知の通り、薩摩藩が単独で犠牲を払いながらもイギリスと戦って、イギリス艦隊を錦江湾から追い払っています。

第6章 薩英戦争の処理 P124〜

攘夷論者への反発をおさめる

薩英戦争は英国艦隊が引き揚げたことでいったんはおさまりますが、それまで攘夷をあおっていた藩上層部への不信感や反感が、「小松、大久保、中山を殴れ、殺せ」等と一気にふきだします。

そこで久光は反攘夷論者を呼び出して、「能く能く勘弁せよ」と直々に説得しています。

久光は、小説やドラマでは自分勝手な人物のように描かれていますが、実際は相手の言い分をよく聞いた上で、懇切に説明をして理解を求めるように努めています。

「能く能く勘弁せよ」と国父様に言われたのでは、反攘夷論者達も言葉を返せなかったでしょう。

第7章 文久3年の状況 P137〜

参予会議

久光は朝廷をトップにすえ、幕府と諸大名が加わるという形で国内をまとめて、外国の介入を防ごうと考えていました。

そして、久光は朝廷に働きかけて、松平春嶽、伊達宗城、徳川慶喜、山内容堂、松平容保が朝議参予に任命されます。

しかし、この参予会議は空中分解することになります。

幕府から毛嫌いされていた慶喜を将軍の後見役につけて、政治の表舞台に立てるようにしたのは久光で、国内を分断させないために、それまではかけ声だけで中身がなかった「公武合体」を久光が努力して朝廷の参予会議という形で実現させたのに、慶喜は幕府の権威回復だけに熱心で、会議は久光や春嶽、宗城等の思いとは反対の方向に進められ、とうとう解体してしまったのです。

極言すれば朝廷を利用した「慶喜政権」の出現に、久光は強い衝撃を受け、深い失望を味わいました。

西郷呼びもどし

長崎丸事件等、長州藩と薩摩藩にトラブルが続き、激怒する薩摩藩士達を久光がなんとかおさめている時、西郷を沖永良部島から呼びもどそうとする動きがありました。

西郷呼びもどしを進言された久光が怒りのあまり歯を噛みしめて、くわえていた煙管に歯形をつけたのは有名な話です。

久光は、それでも最終的には、家臣の意見を聞き入れて、西郷の呼びもどしを許可しています。

もし、自分のメンツばかりを気にする久光であれば、確実に西郷は沖永良部島から帰ってくることはなかったと思います。

第8章 明治時代の久光 P162〜

廃藩置県、西郷の態度急変に怒り

明治になって病が回復したのち、久光は新政府に対する反発を繰り返します。

よく知られているのは、明治四年の廃藩置県に怒って一晩中花火を上げたエピソードです。

一般的には、封建制度を維持したい時代錯誤のわがままな人間が領地を取り上げられた怒りで行ったことだと思われていますが、実際はどうだったのでしょうか?

西郷が廃藩置県を決める会議に出席する前に、久光と打ち合わせをしていますが、その際、西郷は「ことを急にしてももし万一の事があっては国家の大事でござりますから、・・・。従って現今の如き府藩県の制度を執りて国家の為、朝廷の為に永遠の謀を為す考えでござります」等と廃藩置県は賛成だが、事を急ぐことは良くないと話をしており、久光もこれに同意しています。

しかし、1か月後、廃藩置県の決定になったので、久光は再び西郷に裏切られた形となったのです。

西郷にしてみれば、会議で当初はどうしても同意しなかったのですが、西郷一人が反対してもどうしようもなかったので、久光の責めは自分が一身に負うと決めた上での決断でした。

廃藩置県について久光の考えを松平春嶽は、「久光は、急激な変化は人心を動揺させて社会不安につながるから、少しずつ変えていった方が良い」という考えだったと語っています。

久光は、「今日に至って自国の存亡を意とするに足らぬ」と語っているように、文久2年の率兵上京時に最悪の場合は薩摩藩を失うことも覚悟していましたから、今になって廃藩置県で統治権を失うことに怒ったのではありません。西郷に裏切られたことがショックだったのです。

久光上京

政府は鹿児島で政府批判を続ける久光に手を焼いて、なんとかなだめようと度々勅使を派遣して上京を求めました。

明治6年3月、久光が勝海舟を勅使として使い、久光は勝にしたがって東京に行きました。

しかし、誰が久光に説明するかで皆尻込みしてしまい、まず、三条実実、岩倉具視が逃げ、大久保以下の旧薩摩藩士も久光の逆鱗に触れることを恐れてやろうとはしません。

そこで、木戸孝允、板垣退助、大隈重信(大隈は三条が同席する条件で了解した)に白羽の矢が立ち、それぞれが別の機会に久光に説明をすることになったのですが、久光に会った後の彼らの久光に対する印象は「最初は久光の事を頑固で強情な解らず屋だと思っていたので、話が通じるかどうか心配していました。ところが実際に会って話をすると、社交的で学識があり、度量が大きくウェットにもとんでいたので、予想とは全く違ったことに驚き、久光の事を『当世の名君、一世の英俊として深く之を尊敬する』気持ちになった」と絶賛しています。

日本が西洋の精神的植民地になることを危惧

久光は板垣や大隈の話を聞いて政府の考えをある程度は理解していたと思われますが、納得はしていませんでした。

久光は危惧していたのは、急速な西洋化によって、日本の伝統や文化が失われることでした。

久光は斉彬の遺志をついで、日本を西洋の植民地にしないように頑張ってきました。

その結果、「政治的植民地」にはならなかったのですが、新政府が何でもかんでも西洋の真似をするので、これでは「精神的植民地」になってしまうのではないかと危惧したのです。

日本の将来を憂い、若者に丁寧に教える

急激な西洋化で日本の良さが失われる事を危惧していた久光は、国元の若侍たちの教育にもつとめました。

久光は、若侍たちに、自分が過激なことを言いうのは急激に西洋化している世間に対するショック療法で、何でもかんでも欧米の真似をするのは良くないと教えています。

明治9年6月に来日したドイツ人医師ベルツも日本の急激な西洋化を危惧し、日記の中で「ヨーロッパの文化をそのまま日本に持ってきて植え付けるのではなく、まず日本文化の所産に属する全ての貴重なものを検討し、これを、あまりにも早急に変化した現在と将来の要求に、殊更ゆっくりと、しかも慎重に適応させることが必要です。ところがーなんと不思議なことにはー現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養のある人達はそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』と私に明言した者があるかと思うと、またある者は、私が日本の歴史について質問したとき、キッパリと『我々には歴史はありません、我々の歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました」と記しています。

久光が強く意識していた伝統と文化の大切さについて、台湾を近代民主国家に育てた李輝元総統はこのように語っています。

「現代人は、物質のみを重視し、表面的な事柄にとらわれる傾向が極めて強いように思われます。抽象的概念に向き合って精神的思考を磨く努力をしようとせず、・・・。人は昨日より今日、今日より明日をより良く生きたいと願うものです。その意味で進歩は重要ですが、進歩を重視するあまり伝統を軽んずるような、二者択一的な生き方は愚の骨頂です。特に、物質面ばかりに傾き、皮相な進歩ばかりに目を奪われて、その大前提となる精神的な『伝統』や『文化』の重みを忘れてしまうのは大いに問題です。『伝統』と言う基盤があればこそ、その上に素晴らしい『進歩』が積み上げられる。伝統無くして真の進歩などあり得ません」

李登輝元総統と久光の考えはあい通じるものがあります。

久光は日本が伝えてきた伝統や文化、その底流に流れる精神性がこのままでは『自然消滅』して『取り返しのつかぬことに』なるのではないかと危惧していたから、わざと頑固に振る舞って警告を発し続けたのです。

その後の久光

明治7年4月、久光は左大臣に任命されます。

実権の伴うポストについた久光は、行きすぎた西洋化を抑えて人心を安定させるために、翌5月に三条太政大臣と岩倉右大臣に対して、天皇の制服を洋服に変えたことや暦を太陽暦に変えたことなど20ヵ条の質問書を出して、意見を求めました。

しかし、この質問書に対する答えは「ノー」でした。

失望した久光は、病を理由に出仕しなくなり、明治8年10月に辞職することになりました。

この後、久光は政治の世界から離れ、明治10年(1876年)に起きた西南戦争では忠義とともに桜島に避難して中立の立場を貫きました。

そして、久光は国史である『六国史』の続編と位置付ける『通俗国史』の執筆に専念し明治20年12月6日、71歳でその波乱の生涯を閉じます。

朝廷では三日間を廃朝(天皇が政務を行わない)として、葬儀を国葬にするように命じました。

今は鹿児島市にある島津家長谷場御墓(福昌寺跡墓地)で、兄斉彬と共に眠りについています。

終わりに

この『語られた歴史 島津久光』は、久光から聞いた話を市来四郎が史談会の場で語ったものを多く取り上げており、久光も市来も歴史的事実を後世に伝えることについては真摯な人物であり、彼らの話に耳を傾けるのは歴史を新たな視点で捉えることにつながると思います。

本書を読んで、本当に久光は謙虚で、部下の話をしっかりと聞き冷静に判断を下し、一旦方針が決まれば強いリーダーシップを発揮して藩をまとめ上げ、ぶれることなく目的に向かって進んでいく、とても魅力的なリーダーであったことが分かりました。

私は、今まで久光公のことを誤解していて本当に申し訳なかったと反省しています。

歴史とは、一方だけの史観だけではなく、あらゆる角度から見なければとんでもない勘違いをしてしまうのものだと改めて感じました。

 

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